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「心のち〇こ」とヴァーチャル・レズビアン・ファルスについて

あんまり綺麗な言葉ではないので何でも許せる方向け。

今回のテーマは「腐女子」を自認する私が用いる「心のちんこ」という概念について。

よくわからんキワモノめいた思想ですが、ラカンやバトラー、フロイト辺りにふわっと触れつつ、新たなファルスの在り方として再定義していくよ。

 

Q.そもそもファルスってなに?
A.ペニスを実際の身体器官だとしたら、ファルスは概念だったり象徴的なもの。
解釈を広くとることで、ペニスを持たない者でもファルスを持つことはできるのではないか?とこじつけ思考していくよ。


Q.ペニスとファルスって別物なの?

A.フロイト:ペニス=ファルス
 ラカンやバトラー:ペニス≠ファルス。この二つの繋がりを解体しようとしたらしいよ。

 

 もし女性がファルスを持つとしたら、どんなイメージを結ぶのであろうか。バトラーを参照しながら具体的なレズビアン・ファルスの在り方について考える。

 

1.女性はファルスを持てないのか?

 従来のフロイト的認識によると「女性はファルスを欠いている」のが常であった。
精神分析入門』において、男性器を眺めることで「女の子は自分はひどく損をしていると感じ、しばしば『自分もああいうのがほしい』と言い、ついに陰茎羨望におちいります*1」という。生まれつきペニスを持たない女児は、それを欲しがるという考えが前提にある。そしてヴァギナによって父や夫のペニスを捕らえることで、その欠乏を埋めようとする発想に繋がっていく。

 通例ペニスを持たない性を女性と呼ぶことは覆せない*2一方で、女性がファルスを欠くとは限らないのではないか。


 「ファルス=ペニスでない」と主張したバトラーの著書『問題=物質となる身体』に、以下のような記述がある。

ファルスの転移可能性を強調すること、すなわちファルスは転移可能あるいは可塑的な属性であると強調することは、ファルスであることとファルスを持つことの間の境界を揺るがすことであり、これら二つの立場の間には必ずしも非矛盾の法則が適用されないと示唆することである。 *3

 バトラーは、ファルス「である」女性と、ファルスを「持つ」男性という二項対立の図式を攪乱させて異性愛規範の壁を壊した。ファルスの意味は様々なところへ散らばり、容易に変形し得るものになっていく。すると「である」「持つ」の意味が従来とは異なるものへと移り、ある意味では女性がファルスを「持つ」ことも可能になると言える。私はラカンの定めたファルスの特権的地位までは否定しないが、その特権性が男だけにあるとも現実だけのものだとも思わない。

 なぜなら、ボーイズラブの同好の民は長年「心のちんこ」を使いこなしてきたからである。
 「心のちんこ」とは何か。たとえば「受け」と呼ばれる挿入される側の男子が、数多の困難の果てに結ばれたラブシーンにて、「攻め」と呼ばれる挿入する側の男子の劣情を煽る台詞を言うとする。そして、その漫画を読んだBL愛好家は「心のちんこがたった」「シコリティ高すぎ」などと感想を抱く。ここでいう陰茎表現は、肉体的な性器には繋がらない。実在する女体に一切触れることなく、時に「攻め」のペニス表現と共鳴しながら、「心のちんこ」でパッションを受け取るのだ。

 興味深いことに、BL愛好家たちの間では「心にちんこがある」や「心がちんこになる」ではなくて、「心のちんこを持つ」認識が定番になっている。

 まず「心の」と付くことで股間にぶら下げるブツとはまた別の、観念的なイメージを打ち出していることがうかがえる。そして心のちんこを「持つ」ことによって、今まで貞淑であれと性を抑圧されてきた女性であろうとも*4、主体的にBLという性的ファンタジーを切り拓いていける。
 なお、ここで述べるBL愛好家とは異性愛者の女性が大半であるが、レズビアンも、ゲイも、バイセクシュアルも、ヘテロセクシュアルトランスジェンダーもその他諸々すべて含まれることに留意したい。心からボーイズラブを愛する者でさえあれば、そのセクシュアリティは問われないのである。
 したがって、実存的なちんこ(=ペニス)を持つ・持たないに関係なく、「心のちんこ(=ファルス)」を持つことができる。

 

2.ファルスで共鳴する女性たち

 もしフロイトラカン的発想であれば、男性がファルスを持ち、女性はファルスを持てないためファルスであることを望む。すると現実の場において女性は当事者でなければならなくなる。
 しかし「心のちんこ」を持つ女性にとって、欲望の対象は常に漫画のなかにあり、自らは壁となり床となり傍観者的に「受け」や「攻め」といったBL内の「推しカップル」を愛でられる。すなわち床視点で読んでいる限り、自分が欲望の対象として眼差されることは起こり得ない。安全装置としての清廉潔白なBLの箱庭がここに誕生する。

 そんな箱庭内で、BL作品を読む同士たちは萌え語りによりパッションの共有を行う。具体的にはなんでもいいが「幼馴染が成長してギクシャクする関係萌え」や「対面座位の兜合わせしか勝たん」「3連結3Pからしか得られない栄養素…」など多岐に渡る。BL好きの仲間の会話は、日常的に性的な単語が飛び交うことに最初は驚いた。そして、時には男性まで同じ話題で盛り上がり、全く性的な雰囲気にならないのもBL愛好家の集う場ならではだろう。

 溝口彰子(2015)は、著書『BL進化論』で「愛好家女性の頭のなかでは、彼女はあくまでも好きな作品について感想を述べているだけであって、自らの性的欲望について語っているわけではないからだ」*5と語っている。つまり、セックスするのはBL漫画のなかの男たちであり、自分ではないのだから恥じらいなくファンタジー妄想を交換できるということだ。もちろん最初からプラトニックなBLを好む人もおり、エロ許容度は人それぞれであるけれども。BL愛好家の間で男同士の関係性に萌えを見出し、お互いの萌えに共感し合う行為は、「心のちんこ」を共鳴させていると呼べるのではないか。

 そしてまるでライブ会場でペンライトを振り上げるかのように、「推し」たちの恋愛模様に「心のちんこ」を振り回すという。BL愛好家にはアイドルオタクを兼ねている者も多いのだが、非日常の場でファンが一体化する感覚に近しいものがあるからだと思う。
 以上が「心のちんこ」というBL愛好家内で根付いてきた共同幻想について私なりの見解である。ファルスのイメージとしてはペニスのような棒状のものから脱しきれていないが、一人で扱くでも誰かに挿入するでもなく、仲間と一緒に振ることで盛り上がる姿が新たなファルス像である。

 

3.レズビアン・ファルスを再定義する

 バトラーは著書『問題=物質となる身体』で、従来のペニス=ファルスの前提を攪乱し、新たにレズビアン・ファルスを提示した。そこでは以下のように述べられている。

もしレズビアンがファルスを「持つ」とすれば、彼女は伝統的な意味でこれを「持つ」のではない、ということもまた明らかである。(中略)「持つ」ことの《幻想》的地位は、境界画定し直され、転移可能、代理可能で、可塑的なものへと変容される。*6 

 従来の二項対立的な男女関係において、ファルスは男性のみが「持つ」ものであった。しかし異性愛規範を一度崩せばその前提も変わってくる。欲望は一方的なものではなくなり、ファルスを「持つ」ことの意味が自在に変わり得るなかで、再定義できるレズビアンのファルスとはいったい何なのか。
 これまでの「心のちんこ」共鳴説を踏まえて「ヴァーチャル・レズビアン・ファルス」の例を挙げたい。「ヴァーチャル・レズビアン」とは溝口(2015)が『BL進化論』にて、現実世界とは異なるネット上のヴァーチャル・セックスを踏まえて提唱した概念である。

BL愛好家たち同士は、彼女たちの実際の肌や粘膜を触れあわせるレズビアン・セック スはおこなわないが、それとは別次元で、欲望の回路(ファルス)そのもの同士をBL表現物という仮想空間のなかで交わらせるという意味で「ヴァーチャル・レズビアン」なのだ。 *7

 重要なのは、「ヴァーチャル」であって実際のセクシュアリティに依存しないことである。溝口はBL愛好家たちによる萌え語りに、レズビアン・セックスを投影している。作家と読者であればBL作品を通じて、読者同士であればその感想によって嗜好を共有することで、共感が生まれ、団結を深めるのが「ヴァーチャル・レズビアン」関係に値する。

 ちなみに、ここで「彼女たち」「レズビアン」とあるのはBL愛好家、そしてBLを生業にする者の大半が女性であるから、そのシスターフッド的前提を踏まえてのことである。しかし、たとえヘテロ男性でBL好きの方も、趣味としてBLを嗜むゲイの方も、BL萌え語りを通じて「心のちんこ」を共鳴すれば、それはもう「ヴァーチャル・レズビアン・ファルス」なのだと私は定義したい。

 

 女性でも眼差される側から眼差す側に移り、物語とそれを共有する場において自由に欲望を交わす現象について考えてきた。

 これはBLという性的ファンタジーを好む者同士の箱庭内に限定された関係ではあるが、生物学的な性別およびセクシュアリティとは異なる次元で、ファルスを再定義する可能性を見いだせるのではないだろうか。

 

☆★☆

「心のちんこ」とかいうトンチキ用語を難しい概念的なものと絡めて語ってみたかった回。書いたのはちょっと前なんですが、今読み返したら全く意味のわからない怪文書で泣きました。

私自身のセクシュアリティは正直今もよくわかってなくて、そもそも人を恋愛的な意味で好きになるかも怪しいあやふやな人間ですが、溝口さんの提唱する「ヴァーチャル」レズビアン説が面白いなーと!

セックス妄想や萌え語りを同性間で共有するのって、なんか、眼差す対象よりもその語り手に共鳴してるのかも?ってたまに思います。未だによくわかってないけど。

ここちんって難しい…。私にはついてないし、別についてないことに性別違和を感じないし、ズリネタにする訳でもないんだけど、BLで良い感じの関係を見た時のうおおおおおおおって閃き。これを第三者言語化できるようになるまで、よくわからん自由研究は続くかもしれません(終われ)。

 

余談

 

 

 

*1:フロイト精神分析入門(下)』高橋義孝・下坂幸三訳、新潮社、1977年、465頁。

*2:←この辺はトランスジェンダー性自認の問題だとまた違うけど今回はややこしいので割愛

*3:ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』佐藤嘉幸監訳、以文社、2021年、85頁。

*4:私は女だからって誰かに性を抑圧された経験全くないんだけども、社会というか歴史全体的に見ての話

*5:溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』太田出版、2015年、234頁。

*6:ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』佐藤嘉幸監訳、以文社、2021年、119頁。

*7:溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』太田出版、2015年、243頁。